「ニ兎」 を追う

− 一教員の回想 −

福島県立福島高等学校福島高校梅苑会

大 内 寛 隆

     ◇ は じ め に

 わたしが過ごした少・青年期の社会情勢はどんなだったのでしょうか。
国家的ないし国際的には、高校に入学した1951(昭和26)年は、サンフランシスコ平和条約が締結されました。 そうした状況を反映して田舎の高校では、「自衛隊設置は是か非か」といったテーマで、朝日方式のクラス対抗トーナメントの全校討論会が実施されました。
わたしの母校は、戦後、県立に移管する時に、旧制の中学校と高等女学校が合併して共学校になっていましたが、共学クラスは、類型別の音楽選択コースだけでした。

  大学時代(1954[昭和29]年〜58[同33]年)は、経済的にも「神武景気」が出現したものの、卒業するころは、鍋底不況に陥っていました。政治的には55年体制がスタートし、一定の安定をもたらした半面、政治的緊張もみられました。
仲間たちが、学生運動やセッツルメント活動に関心を持ち、松川事件支援活動に奔走していましたが、わたしの関心は(メンタルな発達の面で子どもだったこともあって)、教養部から学部へ進むときの学科の選択と卒業論文に向けられていました。
 学科では、世界の進運から英語の重要性を感じてはいましたが、大学に入ってからも好きな割には、成績が芳しくなかったこともあり志望しませんでした。
 教養部2年のときに受講した文学概論が新鮮だったこともあって(というのは担当の北住敏夫[のち国文学科主任教授になる〕が、日本文芸学を創始した岡崎義恵の愛弟子で、講義の内容が、草野心平の記号●やオノマトペ=擬声音を用いた詩などを素材にしたものであったからですが)、国文学への進学も考えましたが、家庭的にも、自分の体験からも文学とは縁遠いと考えて断念しました。

 結局、国史学科(現在は日本史学科)へ進みました。国史学科への進学は、要するに消去法によったもので、積極的な理由や動機はありません。ただ、関連があるとすれば、次の3点でしょう。

第1点は、中学1年のとき社会科地理の宿題を調べるに小学校の「郷土誌」を閲覧しました。
永井愛子先生(のち前川治郎夫人)にお世話になって、幾日も夕暮れ時まで閲覧、筆写しました。

第2点は、当時、戦後歴史学の傾向として社会経済史の調査研究が活発でした。わたしの父の生家は、わたしの生家から山を越せば、十数分ほどのところにある集落にあって、十数軒全部が農家で同姓です。父の生家は、山襞の南向きの東高西低の斜面にあります。屋敷形が4軒並んでいます。
古い時代には4軒あったそうですが、わたしは、3軒しか記憶にありません。父の話では、元は1軒の持高がみな5石だったそうです。どうしてそうなったのかについて少しばかり興味があったわけです。

第3点は、この地方の歴史についての書物には、河北新報の通信員だった影山常治さんの「田村の小史」くらいしかまとまったものがなくいささか不満を抱いていました。(のちに、中世の地域史に関する青山 正さん(白岩村[現郡山市白岩町]の旧庄屋出身)の「田村荘史」という立派な作品があることを知りました。)

  学部に進んでからは、日本史のどの分野・時代・地域に絞るかとか、大学院へ進むかとか、どんな職業に進むかなどを考えながら生活したといいたいのですが、そうでもありませんでした。
 分野・時代・地域についても迷いがあって、本県出身の歴史学者朝河貫一の「THE DOCUMENTS OF IRlKI」を購入したりしました。そして仲間の大方は、教授の助言を仰いで、公刊された資料を基にしたり、既に学会で話題になったりしているテーマを批判的に取り上げたりしていました。

  わたしは、地域の未開拓の分野である郷里の近世「三春藩政史」を取り上げることにしました。
  このテーマは、これまで考えていたいろいろな問題や学会の動向を包括的に扱えるのではないかと思えました。
見方によれば、当時は、福島県史も自治体史も公刊されていなかったから、前人未踏のテーマでもありました。
 その上、当時は、クルマもコピーもまだ普及していません(青焼きとか紫色の湿式複写機は戦前からありましたが、学生の手の届くところにはありませんでした)。資料の採取は、それこそ自転車、汽車、バスを利用するしかなく、カメラも普及せず、ましてスピード現像機は店頭に姿を現わしていませんでしたから、借用した資料は、全て原稿用紙に手書きで筆写しなければなりませんでした。

 3年のころから単位論文として筆耕を始めました。4年生の時は、仲間が図書館で刊本を筆写している間に、わたしは郷里に帰って、旧藩士の家や旧庄屋などを訪ねては、資料を借用してきて筆写しては返却し、返却してはまた借用しました。それで教育実習が終るとほとんど登校しませんでした。
  そのため教員採用試験の準備などは手つかずの状態でした。その不勉強、準備不足が、採用人員が定数法の規準をみたしていないことや鍋底不況だったことと相侯って、福島県からも宮城県からも篩い落されました。そのころは試験採用が始まって間もなく受験者への対応が不親切で、不合格者への通知もありませんでした。
 ちなみに年度途中から講師採用になったものが(優先的に)本採用になるという話も聞きました。大学の2年先輩のひと りは、校長が直々彼を訪ねて、来てくれるよう懇願したそうです。

 序ですから、採用試験のことをもう少し書きましょう。
 学法石川高等学校に行くことになって、母校の0校長に挨拶に行ったら、「2年も勤めてまた出願しなさい」といわれました。そのつもりでいましたが、2年目の夏休みに、首の皮膚炎が根治しないので、1日30円の入院費で郡山のS病院に入院しました。
  そこへ南福島高校長のK先生が、態々見舞いに見えられて、「受検しなかったのですか。定数法が改正されて、今春から採用枠が増えたのですよ」ということでした。それでいよいよ再受検を考え始めました。
  リベンジの積極的な動機は他にもあったのですがそれは省きます。

1次試験は、昭和34年の12月に福島女子高で行なわれました。その年の暮れに、福島女子高が火災で焼失してしまいました。K先生からO校長を紹介してもらい、0校長の紹介状を持参して2次試験の前夜、学務課長のS・S先生宅を訪ねました。
2次試験は、1月に、福島商業高で行なわれました。個別の面接で、面接官は二人で、その一人は、驚いたことに昨夜面談したS・S先生ではありませんか。
  2月だったか3月だったか記憶が薄れてしまいましたが、福島高校長のS・H先生から電話で、面談の日時を知らせてきました。場所は、S・H先生の出張に合わせ、須賀川駅の待合室でした。3月末に、0校長に挨拶に行ったら、「やがては校長になれますよ」というのです。
 当路者の常識として学閥が定着していることを感じました(校長にはなりませんでしたけれど)。ある時、そのころ県立聾学校長だったT先生に出会いました。そして「受け直したの!?」というのです。わたしの耳にほ(受け直さなくてもよかったのに)といっているように受取れました。
 このように当時は、人事に関する校長の権限が強く、試験採用の趣旨も徹底せず、変則的な採用も可能だったようです。

  ところでわたしが教職の傍ら地域史の調査・研究を継続する支えとなったのには、幾つかの心象がありました。
一つには、就職の決まらないまま卒業式を迎え、むなしく帰郷することになったのですが、その時、仙台駅の上り線ホームまで見送りに来てくれた大学院の先輩たちの優しさ温かさが忘れられなかったからです。そんなに親しくしていたわけでもなく談論風発したということもなかったのに、みんな見送りに来てくれたのです。
二つには、院生でもないわたしに「国史談話会雑誌」第3号(1959[昭和34]年)に寄稿するように進められ、卒業論文を要約して「三春藩家臣団の構造」を掲載してもらいました(この年、同期で大学院に進んだF君が東北史学会の「歴史」第18輯に「庄園と村落」を載せました」)。3年後には、「歴史」第25輯(1962[昭和37]年)に「面扶持制」が採用されました。
三つには、そのころスター卜した「福島県史」や「福島市史」は大学人であるとか学閥や団体閥などのガードが強固で、わたしにほ機会が与えられませんでした。
だが、郷里の「三春町史」に郷里の先輩たちの配慮で参加させて貰い、「三春町史2(近世)」(1984〔昭和59]年、880ページ)の半分を執筆しました。これは、いろいろな意味で、幕藩体制に関する自治体史の総合的なリーディング・テキストだと自負しています。
四つには、福島高校全日制(1968[昭和43〕−80[同55]年)で出会った故須田幸四郎先生(国語)が、「お互いに二兎を追いましょう」といって励ましてくださったことです。
 本務の他に歴史研究、芸術活動(音楽・演劇・文芸)、スポーツ、社会運動(福祉・環境保護・平和運動・護憲運動)などを手掛けている人たちは、ほぼ60歳以上の年齢層に多く見られます。わたしの来し方もその一例に過ぎないのです。決して「二兎を追う者一兎をも得ず」ということはありませんでした。勿論多くの方々の温情や良心に支えられてきたことはいうまでもありません。

     ◇ そ し て

 わたしが辿った歴史の調査報告ないし研究を整理することにします。
 先に「三春町史2」を自治体史の総合的なリーディング・テキストと書きましたが、自治体の多くが近世の農村部のみをエリアとしていることもあって、自治体史の多くが、戦後長く主流となってきた農村社会経済史の立場で書かれ、幕藩領主不在の歴史になっています。
  わたしは、百姓や町人などの領民の生活を明らかにするには、幕府法や藩政を整理し、どのような施策を実施したかを確かめなくてはならないと考えました。 領民の重い負担は、 一つには、土地制度の原点に遡る必要があります。
二つには、幕藩体制の中で、領主(藩主や幕領の代官など)の幕府に対する負担がどうであったかを明らかにする必要があります。
三つには、領民は、百姓と町人だけでしょうか。かつて故綱野善彦さんが、百姓イコール農民ではないといって、漁民や職人や行商人や遊芸人の存在とその生活を掘り起こし、ヨーロッパ中世社会史の阿部謹也さん(「中世の星の下で」[1986年])とともに社会史のブームを引き起こしました。

 わたしは、そこまで明確な問題意識を持っていたわけではありませんが、 一つは、武士と百姓の境界にいる足軽、 二つには、百姓と町人の間にいる職人や奉公人、 三つには、1871(明治4)年8月に、廃止され、この地方では、日頃忘れたかのごとくに付き合いながら、結婚問題などになると、ルーツが蘇り差別されるそういった人たちにも照明を当てるべきだろうと考えて書きました。

  資料編に「秋田家御触抜書」(享保4年〜天保4年の三春藩の御触、3巻中、中巻散逸、大学3年の時に筆耕、400字原稿用紙207枚)に、菅野 輿先生が木幡家文書により補充したものを藩法集として収録しました。藩政史を書くに当たっては、地元の旧家の古文書を縫綴して組み立てました。
 最も有益だったのは、橋元家文書(城下三検断の一つで、元最高裁判所判事橋元四郎平弁護士の生家、彼は、母校の先輩で、当時ほ司法修習生)に収められていた旧藩士赤松家の歴代の記録、とくに多年にわたる「割番日記」でした。
 また旧藩主秋田家の当主秋田一挙さんが東北大学の同窓生で、東北の雄安倍氏あるいは安東氏の末裔であったことからその主要記録が同大学図書館に架蔵されていました。それを在学中に、当時院生で東北文化研究所に所属していた故鎌田永吉さんの好意で閲覧・筆写させてもらっていましたが、それを活用しました。
 しかしそれだけでは十分ではないので、幕藩の根本資料として、当時刊行中だった「徳川実紀」正・続全15巻を自費で購入し、地方文書の欠を補いました。
 旧藩主松下長綱が改易になる経緯は、高知市立図書館に依頼して旧高知藩主山内家の「修史余禄」を提供してもらいました。

  土地制度については、太閤検地まで遡りました。そこでは検地(土地の測量)を行なう際の1間の長さ(検地竿・間竿=6尺3寸≒1.9b)や位付(土地の等級)や斗代(石盛=1反歩[10e]当りの規準収穫量)が検地条目で定められています。しかし検地が隅々まで実施されたかどうかについて、わたしは疑問を抱きました。

 特に検地による村の総高に変更がないのに、間竿の長さが村によって違うということ(延竿・村竿)の裏なり実態なり真相を突き止めようとしました。故安田初男さんは、村竿は、後年、港内での事務的な操作によるものとして無視しました。また小林清治さんは、このことについて深く分析されていません。
 たとえば6尺3寸竿の面積と8尺竿の面積は、1.6倍になります。太閤検地の不徹底を後年、延竿で隠蔽したのではないかというのが、わたしの推論です。
 利巧な検地奉行や新領主は、旧来の領主や百姓との間の無駄な軋轢やトラブルを避けるのが得策だと考えるでしょう。わたしは、両者の力関係が影響するものと、今でも考えています。

  土地制度では、知行制度や縄引や分地制限の問題もありました。将軍から大名や旗本に知行地という土地を与えました。財政改革や領民の統治の上から、外様の大藩などは、幕末までずっと土地を与えました(地方知行制)が、多くの藩では、米や米札を与える仕組み(俸禄制)に変えてゆきました。近世(江戸時代)の中頃に、財政がさらに困窮すると、家禄を廃止して、家族数に応じた米金を与えるようになります。これを面扶持制といいます。
 この場合、嫁さんは実家の家族に数えたり、引退した老人にほ隠居扶持を支給したりしました。千石の重臣でも家族が五人の場合は、五人扶持を支給するといった按配です。
  縄引というのは、一定の年期ごとに、縄引=検地をおこない、それぞれの耕地を複数の百姓が籖を引いて耕作地を決めていき、自分の持高に達するまで続けます。土質・地味・水利・日照などでの偏りを修正することを狙ったものと思われます。
 記録には、「縄引」・「地均し」などと書いてあります。これは、幕末まで、県内の広い範囲でみられます。村役人や係りの者は、村の鎮守で神水を酌み交わし起請文(誓約書)に血判を押して、作業を始めます。このような慣行を見ていると幕藩体制下の行政村にあっても中世の惣村に起源をもつところの自然村(村落共同体)の姿を認めることができます。

  これについて「福島県史」などを手掛かりにして「歴史」第38輯(1989[昭和44]年)に研究ノート「籖取制度」として発表しました。これについては、後年、割換制(元学習院大学の故児玉幸多)、割地制(福島大学の吉村仁作)などといった関連報告がみられます。

  分地制限については、幕府が1673(延宝元)年に発した「分地制限令」がよく知られています。それとは別に、百姓の社会では、均等分割相続制というものが行なわれていました。それを旧会津藩幕ノ内村(現会津若松市)の佐瀬家の「分限帳」をもとに福島大学の故藤田五郎さんらが「豪農論」として取り上げ一時期の学会をリードしました。

 これは、わたしの父の生家に隣接する4軒が一様に5右前だという伝承と一致します。残念ながら父の生家のある旧貝山村の庄屋大内家は、割頭を勤めた有力な百姓でしたが、元禄年間に改易され、また後任の庄屋岩崎家は、明治以降没落してしまい、記録に基づく確認の手掛かりが失われてしまいました。しかし幸いなことに、旧過足村の旧庄屋木幡家に「宗門持高帳」が遺っていました。その持高を整理すると、村全体を一本化できませんでした。

 話の順序が前後しましたが、持高に応じて課される種々の負担の目安となる1軒前の持高は、村の総石高をある時期の軒数(戸数)で割った石高です。この村は、記録によれば、近世初期までほ、上過足村と下過足村の2村に別れ、鎮守もそれぞれに1社ずつあるのです。
そこで2村に別れていた時代の2種の1軒前の持高を仮定すると、煩雑な持高が、きれいに整理され、しかも近世初期の軒数(草分けの竃)も計算によって推計できるのです。「宗門持高帳」に記載されている百姓の持高には、1.5軒とか1.25軒とか単純な均等分割では説明できないものもありました。そこでそのような持高は、分割相続によって生じたのではなく、売買や譲渡によったのだろうと考えました。つまり売買や譲渡に制約−たとえば、売買や譲渡には、田畑の数ではなく持高の何分の一という制約−を設けていたのであろうと推論しました。

  武士と百姓・町人との境界にいる足軽については、みなさんがご存知のように、一条兼良の「樵談治要」や織田信長の革命的な足軽鉄砲隊の編成など古くから注目され、江戸幕府も軍役規定に弓・槍・鉄砲などの武具と足軽の員数を盛り込んでいます。これらの多くは足軽つまり農兵です。農兵は萩藩の奇兵隊の専売特許ではないのです。
 かつて一橋大学の故佐々木準之助さんが陣夫役として重視しました。足軽には、長くあるいは親子代々勤めて譜代となるものと一代かぎりの1季のもの(居成)とがありました。また武装集団としての諸組に編入されるものと藩士たちに雇用されるものとがありました。
  諸組編成の足軽は、平時には、城郭と城下諸門の警備・藩庁各部署の執務・大名飛脚などの任務に就き、戦時には、配属武備に応じた軍務に就きます。藩士に雇用されるものは若党や中間として藩士に随身します。それらの足軽や若党・中間は、領内の村々に石高に応じて割当てます。
 それを三春藩では出人といい、負担率を出人尺といいます。必要総出人数×出人尺=各村の出入負担数となります。負担人数が徴集できない場合は、与内金を納めさせ、藩なり藩士なりが、与内金で雇用します。白河藩では、こうして雇用された足軽や若党・中間を「金付き奉公人」と呼んでいます。こういうことで足軽は百姓であり、農兵です。足軽は、1869(明治2)年に、足軽を卒族とし、72年に、世襲[譜代]の卒族を士族に編入しその他を平民とし卒族を廃止しました。こうした身分の境界にいるものや境界を越える(越境する)ものがいたわけです。
 後者には、学者・芸術家・医師などがありました。彼らは強い意志と才能によって身分という境界を越えていったのです。これらについては、「三春藩の出人と足軽」(「福島史学研究」第40、41号[1982、83年])や「徂徠学者大内熊耳」(「福大史学」46・47合併号[1989年])として報告して置きました。

  すでにかなりの紙数になりましたが、侍や平人によって差別されていた人たちについても整理して置きましょう。
 三春の城下はずれの八幡町がわたしの生まれ育ったところで、そこの地続きの城下の門外に居住エリアに10軒ほどの穢多と呼ばれて差別を受けていた人たちが、かつて住んでいたといいます。
そこから数百b離れたところには、ジウ屋敷というものがあったといいます。藩政時代に、八幡町の小肝煎がそのエリアを支配していたからでしょうか、近代以降、行政的に八幡町に包括されていました。そのエリアに友達がいて、わたしたちは、学校でも地域でも一緒に勉強したり遊んだりしました。
 地元の町役人の記録の中に、こうしたことの記録があったので、三春町史を執筆する際に、これらの人々について書きました。それを編纂室長の原 宏さんも監修の故大竹正三郎さんも一字一句もカットせずに収録してくれました。
 それを「福島県史」・「新編会津風土記」などによって対象を県内全域に拡げて整理し、「近世における被差別身分の実態−三春藩とその周辺−」(「福島地方史の展開」所収、1985[昭和60]年)としてまとめました。

 東日本部落解放研究所員・部落解放同盟員がこれに注目し、ある日突然、東高校に訪ねてきました。驚きとともに同盟から非難されるのではないかという不安にかられました。しかし彼らは「寝た子を起す」という立場から、調査が進まない東北地方の啓発のために企画に協力して欲しいということでした。
こうしてこのリポートは、1992(平成4)年に「東日本の近世部落の具体像」にそのまま収録されました。さらに2002年10月初めに、大阪人権博物館の朝治 武さんの来訪を受け福島市内の被差別部落周辺を案内しました。そして2003年に、さらに増補した「近世陸奥国南部における被差別身分の実態」を「別冊東北学」Vol.5(東北芸術工科大学東北文化研究センター)に寄稿しました。

 このような過程を経て、また前期の部落解放研究所の啓発によって、その後、千葉大学の横山陽子さんによる「会津藩のイタカの研究」や「近世後期山形藩の被差別民」(「千葉大学院研究プロジェクト報告書」、2004年)、宮城工専の鯨井千佐登さんの「境界の神と癩人小屋」(「境界の現場」2006年)、筑波大学の浪川健治さんの「弘前藩領の被差別集団」(「解放研究」第19号,2006年)などの成果が公にされました。
すでに金森正也さんの秋田藩の町穢多(前掲「具体像」所収)などを含めほぼ東北地方の主要な地域の報告が出揃うことになりました。

 部落解放同盟などには組織や資金の面で兎角芳しくない動きもあり批判を受けていますが、健全な調査・研究が進み、まっとうな人権尊重の啓発に繋がるよう願っています。

  こうした調査・研究によって、被差別身分の人たちが受継いで来た技術が、幕末開国以来の、そして今では全く消滅してしまった日本の花形産業=製糸・織物業の一翼を担っていた事実に行当たりました。
生糸の移出市場であった京都西陣の筬刷きの技術が、飯野の筬屋によって伝習され、信達地方の絹織物業を支えて来ました。
 また信達の蚕種の移出市場であった上州の筬刺きの技術が、近世の早い時期に一方で南山の古町(現南会津町伊南)に伝わり、他方、明治の中頃には、小手村から上州へ筬刷き技術の伝習に出掛けています。
  2002(平成14)年、福島民報は、創刊110周年記念事業として、また福島開府400年記念として「実録福島藩」を紙上に連載しました。長年住み慣れたところではありましたが、福島の歴史執筆に参加するのは初めてでした。これまでの藩政史の経験、「三春町史」をリーディング・テキストにプロットづくりをし、福島藩の体系的な藩政史を試みました。
  こうした調査・研究活動に随伴して、朝治 武さんの「平野小劒研究」(1)〜(5)(「解放研究J第14,15,16,18,19号【2001,02,03,05,06年])および「悲しくも美しき故郷」「(再録)平野小劒を読む」(「別冊東北学」Vol.5)や津久井高校の菅野 守さん(文月会会員)の「関東水平社福島支部主幹者「栃木勇吾」とは誰かJ(「解放研究」第19号、2006年)に接し、かの有名な1922(大正11)年の全国水平社結成に参加し、その「綱領」並びに「宣言」に筆を染めたのが、西光万吉とともに福島市出身の平野小劒(旧姓栃木、本名重吉)であったことを教えられ、また本県の部落解放運動にその一族栃木勇吾や庄司吉之助が本県の部落解放運動の先駆的な役割を演じていたことを教えられました。しかもこれらの先駆者たちがいずれも福島民報社の文選工であったといいます。こうした事実や業績を、機会あるごとに確りと地域の人たちに認識させていかなければと考えているこの頃です。

     ◇ 近代史への迷走

  これまで多岐にわたって、わたしの歴史に関する調査・研究の軌跡を辿ってみました。
元来、わたしの専攻分野が近世史であったことはご承知いただけたと思いますが、ふとしたきっかけから近代を専攻する羽目に陥りました。
 最初のきっかけは、1987(昭和62)年の夏のある日、小林清治先生から電話があり、急逝された故佐藤公彦さん(桜の聖母高校)の後任として「霊山町史」の近代初期を執筆してくれということでした。
 急場凌ぎの助っ人としては全く心許ないのですが、万止むを得ず引受けました。明治初期の朝令暮改の政治に加えて、資料が殆ど遺存していない地域史は、鳥肌の立つような思いがしました。県庁文書を閲覧・コピーし、先駆的な田島 昇さん(元桑折町史編纂室長)の「保原町史」を参照して、どうにか資を埋めました。
 ここでの戊辰戦争の勉強は、後々近代への興味を持たせてくれました。次に小林先生の愛弟子の丹治行茂さん(福島中央高校)から「伊達町史」の近代初期の執筆の話がありました。人脈の行掛かり上、断れませんでした。 ここで出会った芳賀守之助の「日記」には、自由民権運動激化事件後の民権運動家の動静や交流(原余三郎・門奈茂二郎[加波山事件、禁錮13年]・中島友八・岡野知荘・鐸木三郎兵衛・近吉[福島中学校長]父子らとの交流)や当時の青雲の志を抱いた青年たちの行動(成立学舎・二松学舎・上海亜細亜学館・北海英学校・札幌農学校・東京専門学校[のちに早稲田大学と改称]への修学)などはとても興味が持てました。こうして近代史へも足を踏み入れることになったのです。

  そのうち「福高八十年史」の編纂をお手伝いすることになりました。その過程で、
@学校教育と日新館精神の関係。
A学徒勤労動員。
B中島飛行機の地下工場。

この3点が課題として残りました。

@については、東北史学会で「いわゆる日新館精神について」を口頭発表しました。また、この成果を「近代戦争と福島」に挿入しました。
Aについては、「軍事秘密地下工場(浅川工場)」や「東京都学徒勤労動員の研究」などの労作をものされた斎藤 勉さんの誘いで笹谷幸司さんらが主催する「神奈川の学徒勤労動員を記録する会」の交涜会に参加したのを機に、1998(平成10)年から県内の学徒勤労動員の調査を始めました。
斎藤(一)・井上・塚本・五十嵐・宍戸ほかの先生方の貴重な体験を手掛かりに進めました。
県内各地の体験者たちに「わかいのに感心だねえ」と励まされながら、おおむね調査を終えましたが、昨年東北大学史料館で「学徒たちの戦争」展が開催されました。
それによると、東北大学の理・工学部の学生が郡山市の保土ヶ谷化学や日本化学に動員されていた事実が判明しました。このところ老化が激しい上、自治体史の執筆が輻輳して完成できずにおります。
Bについては、福島東高校の歴史部のテーマとして生徒中心に調査をしました。それは、生徒の手で「浜田町界わゐ」に収録しました。このことでは、1泊校外研修の名目で、防衛庁図書館戦史資料室を訪ねたり、国立国会図書館を訪ね、孔版刷りの「米国戦略爆撃調査団報告書」を検索したり、国土地理院資料室を訪ねたりして、復員局・工業会作成の全国の軍事施設とか地下工場一覧とか憲兵隊の概要とか福島連隊区司令部の歴史とか1947年の米軍による福島市街の航空写真とか貴重な資料を入手しました。
 何せ根本資料・基礎資料が廃棄・焼却されてしまったので、現場調査と体験者の証言のみが手掛かりでした。
 「虎穴に入らずんば虎子を得ず」の喩えそのままに、危険を顧ず地下工場跡への潜入・調査を続けました。そこには国内各地から動員された鉱山部隊、それには朝鮮から強制連行された人たちも多数含まれていたということで政治・外交上のトピック・ニュース性があって、共同通信による配信もありました。
 いまどきの情報公開条例による担当者の過剰な開示拒否も体験しました。また富士重工の副社長故山本宏さんからの、その頃、韓国の慮大統領が宮中晩餐会で話した雨森芳洲の「誠心の交わり」を引いての「バランス感覚が大事だ」という忠告の電話や「浜田町界わゐ」に対するお褒めの電話などを頂いたこともありました。

  これらの成果、あるいは入手資料が、「信夫山散歩マップ」に採用されたり、展示に活用されたりしています。また、こうした経験に着目したのか、「歴春文庫」の「近代福島と戦争」(2001[平成13]年)を書く羽目になりました。また、2005(平成17)年には、福島民友新聞紙上に「県内の戦争遺跡を訪ねて」を連載する機会が与えられました。体験者や有識者からすれば、隔靴掻痒の感を免れません。わたしとしたことが、二宮金次郎のいう「分度」を越えてしまったという悔悟の念に襲われたりします。
  本務の教科の教材研究や実践については、他の機会に譲ることにします。